実話 【小池清通】

 
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 エッセイ(1): 二日半4500キロ

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    エッセイ(1)
        二日半4500キロ
        この指とまれ
        砂丘のコーヒーカップ
        ブロードモアホテル
        男四十にして
        青春
        お茶
        美人
        個性
        ある事故
        服から出ていた気


 私の大学時代の後輩の0氏がたまたま日本政府の支援する青年海外派遣隊の類に参加して、カリフォルニア州のサリーナスのある日系人の経営する温室栽培の農場に一年間の契約で住みこんでいたのは1986年5月末のメモリアルデイの連休だったと記憶している。

 彼は愛知県は蒲郡市出身の変わり者で何を思ったのかこの短期渡米計画を思いつき何なりと実行してしまったのであるが、彼もオートバイ病のかなり後期の、完治の見込みのないような症状をもっており、その忍耐の限界に達したのか、無責任にもコロラドに住む私にコンタクトをしてきたのであった。

 「単車に乗っとらんもんでねー、小池さん来てくれん?」とブレーキが効かない車で騙し騙しなだらかな尾根道を早くなったり遅くなったりして、それでも不安なく聞けるスピードで走るように、彼の独特の蒲郡競艇で鍛えたような喉の奥からかもしだされる流暢な三河弁で頼まれてしまった。

 一つ返事で「ほいじゃー、行くわ。」と言ってしまったのが運のつき。まさか片道で二千キロを越える距離を一日で走ってしまおうとは思いもしなかったが、とんでもない長距離ツーリングをしたことのなかった私は、それでも興奮しながら旅支度に入った。

 その頃は、現在サンフランシスコ在住のS氏が経営されていた当地の旅行会社で丁稚奉公させて戴いていた頃なので、なんとか頼み込んで一日休みを戴いて連休にくっつけて帰宅後仮眠をとった。その後起きあがり、翌朝の一時にデンバー北部にある当時住んでいたウエストミンスターの自宅を出発した。この時は借金をしてやっと手に入れた新古のヤマハのXSイレブンのツーリング・モデル(1981年式だったと思う)に乗っていた。

 距離にして片道2050キロの遠路をどの位の速度で走ったらいいのか、また、途中でラスベガス辺りで一泊した方がよかったのか、今から思い出せばどうでもいいことだが、皆目見当もないまま出発した。ロッキーの山岳部は走るごとにどんどんと標高を上げて行く。大陸分水嶺はいわゆるアメリカン・ロッキーの背骨にあたる。それを越えるアイゼンハワートンネルは三千メートルの標高を越える地点にある。

 ロッキー山脈群の中を、インターステート70号線をダウンジャケット着用のうえで走った。初夏に入ろうとしている時期とは言え標高3000メートルを超えるとさすがに寒い。コロラド州の西の端にある都市、グランド・ジャンクションについたのは日の出前であった。給油と共に簡単な朝食をガススタンドでとる。食欲はまだあった。そこから同70号線をさらに西に走りユタ州に入っていった。この辺から景色が砂漠性の乾燥地帯となり低木はあってもほとんどが荒野である。時々水の流れるクリークがあるとコットンウッドと呼ばれる大木が群をなしていた。

 歌にもでてくるあのグリーンリバーで少し休み、サライナから州道50号線に乗り換え北西へ4、50キロ進んだ。頭が膨らんできたかのようにこの頃から頭痛が始まり、仕方なくノーヘルで数10分走るが風が強くてとても落ち着いて走れず、あきらめて痛い頭をかかえてヘルメットを再度着用した。

 インターステート15号線を12キロほど南下してからまた50号線に戻りイリーに向かう。ここからハイウエイ6号に移り、暫く走ったところでかなりアメリカでは古い部類に入るようなガススタンドで給油した。タンクの燃料が半分を切るとすぐに給油を考えて走った。何しろ「この先200キロほどガススタンドなし」などという看板が掲げられている所もある地域である。

 ガススタンドのお店に支払いをするために歩み寄った。もう10時間以上も走りっぱなしの状態で、単車からおりて歩いても股は気持ち開きめであたかもシートをそのまま股ぐらに挟んで歩いているような光景だったに違いない。パントマイムどころではなかった。自ずと食欲は皆無に近い状態であったが、水分は気を付けて多めに飲んだ。

 そんな下半身の自然反射的なディスプレーに気がつくこともなく、お店のおばさんは前途の安全を祈ってにっこりと笑ってくれた。その口の中に並ぶ黄色く汚れた歯はきれいに見えたが、1,2本抜けて風通しがよくなっていたのが印象的だった。

 そんな風に時々小休止を入れながら走ったのだが、ネバダの砂漠地帯では暑くてロッキー越えの時に着ていたダウンジャケットは後ろのキャリアにくくってあった。ところが、砂漠独特の砂嵐に合ってしまった。まるで映画の特撮の要に砂嵐で巻き上げられた砂煙がハイウエイ進行上に見え、道路がすーっと消えて行く。砂漠の一本道で回り道などあるはずがなかった。迫る砂煙の中に突入すると私の周りは真っ白になり、ヘルメットとシールドそして風防にシャシャシャーっと絶え間なく砂がぶつかる音がする。霧の中を砂をぶつけられて走るような感じだが、それに風がいたずら心を出したのか小細工をしだした。

 右から左へと時々吹きさらす強風に車体が反対車線どころか、その路肩まで吹き押されてしまう。自ずと左足に力を入れて踏ん張りながらも、気持ち怒り肩になった自分の集中力を維持しながら走った。出会った車と言えば、道路脇のダートを走るバギー軍団だけで、こんな嵐の中を道路の車線に合わせて走ろうとする自分が異端児のようにさえ思えた。

 結局この嵐の中、私のダウンジャケットが生け贄となった。とてもそこまで神経を配れなかった私のお尻の後ろでしっかりとしがみつくかのようにとめられていたのだが、吹き飛ばされて砂漠の塵となったのである。前進のバランスを取りながら進行するのに精一杯の私には、そんなことが起こっていたと気づいたときにはもう時は遅かった。何百キロと広がるネバダの砂漠地帯で飛ばされたジャケットを探すことは不可能に近かった。

 眠気と疲労に負けまいと歌を歌ったり叫んだりしてカリフォルニア州に入った。州境には食物の持ち入れを検査するオフィスがある。そして、ビショップから395号線を北進しリー・ビニングの手前を西に折れてヨセミテ国立公園の東口へと向かう。洗濯板のような起伏の続く道をとばし、公園に入った頃にはもう日がかなり傾いてきていた。

 ダウンジャケットを失った私は、まだ残雪の残るヨセミテを通り抜けた。疲れがピークに近かったのか、薄暗くなり始めていた公園内の道の脇に沢山の動物たちが見えた。今思えば、森の精が安全を祈っていてくれたのかもしれない。

 マーセッドというヨセミテの西側にある町に着いた時には、BMWの単車軍団に会う。スタンドで給油をしていると、ヤマハに乗っている私が異端児のように思える光景であった。群集心理の勢いを浴びさせられないうちにサリーナスへと向かった。

 サリーナスに着いたのは翌日の朝1時半頃であった。海の香りを気持ち感じることはできたが、太平洋を見ることはできなかった。小雨の降る中、たまたま交通事故で渋滞していたが、道路脇の公衆電話から O氏に連絡を入れ出迎えてもらった。丸一日走り続け、究極の疲れというのはこんなものなのかと思えるような疲れを体いっぱいに感じながら、彼の寝泊まりしているトレーラーハウスに入り、気を利かせて作ってくれたのびてうどんのようになっていたラーメンを食べた。ただ単に腹におさめただけで何の味もしなかったが、その後横になったことまでは記憶に残っている。

 翌日は昼まで寝かせて戴き、O氏を後ろにのせてモントレー、カーメルへと向かった。レースで有名なラグナ・セカを右手に走った。久しぶりの太平洋を見たときは体から力が抜ける思いがするほどうれしかった。海のないコロラドから走りに走って海を見ることができた。

 波止場でアザラシたちの戯れる姿を見てから、17マイルドライブへと向かった。が、残念ながら17マイルドライブというすばらしい景色で有名な道は私道で、入り口のゲートで、二輪車の立ち入りは禁止という理由で入れなかった。何度か交渉したが私有地なのでどうしようもなく苦い思いを堪えサリーナスのトレーラーハウスへと戻った。

 翌日もゆっくり寝かせてもらい、午後1時半にサリーナスを後にした。有名なハイウエイ101号を南下してから46号線で東進。ベーカーズフィールドを抜け58号線でインターステート40号線に向かった。この40号線とインターステート15号線の分岐点に差し掛かるまでは、15号線を使って一挙ラスベガスまで向かってみようという考えがあったが、目前に広がっていた渋滞の群れを見て気を変えて40号をとることにした。

 ニードルスを越えるとアリゾナ州である。キングマンから93号線を北に向かえば1時間半くらいでラスベガスに行けたのだが、そこを通り過ぎた時には既に気持ちはグランドキャニオンに向いていた。そしてウイリアムスに着いたのは朝の3時頃であった。人影の少ないガススタンドで給油をした後、中でコーヒーを飲んで体を温めた。日の出までに時間をつぶそうと思ったが、訳の分からぬ浮浪者風の男が入ってきてやたらと私にちょっかいを出してきた。疲れと戦っていた私には彼をかまっている気力はなく、いそいそと外にでて、64号線を北進して180号線に合流しグランドキャニオンへと向かった。

 この広大な国立公園に向かう道は高原というより、渓谷側から見ると大地の上の平らな面に無数に生えている木々の間を縫って引かれていた。うっすらと空の明かりに灯がともり始めると、街頭の全くないこの道路の両脇に生え並ぶ樹木の枝のラインがかすかに見えてくる。日の出が近づいてきたらしい。

 観光名所として知られているグランドキャニオンの中でも、もっとも多くの人が訪れると言われるマザーズ・ポイントという展望エリアに乗り入れ駐車する。もう既に2,3台の車が着いており私と同様に日の出を楽しみに待っていたらしい。

 時間がきた。このパノラマ写真で何枚とっても収まりきらないような、人間の限りある記憶能力の中にあるデータベースの一こまとして永遠に焼き付けられるような目の前に繰り広げられた。対岸の岩々の陰がかすかに見え始め、そのうち空一面が赤っぽくなる。柔らかい赤みを帯びた太陽の光が白くまぶしくなる前の一時の間、私の立っていた展望エリアに光をあてはじめた。オレンジ色から黄色に岩が輝き、短時間に様々な表情を見せてくれる。自然を支えるかのように太陽は空に昇っていった。

 そこからは、デザットビユーに向かい、89号線を北上し160号線で東に折れチューバ・シティーに向かいギフトショップのあるガススタンドで休んだ。丁度同様にツーリングをしているシルバー・ウイング(ホンダのCX500カスタム)に乗った青年に会って話をした。彼も長旅を楽しんでいるようだが、車体に転倒傷がありどこか砂漠地帯で横になってきたらしかった。ぶつぶつとそのお悔やみ話が始まったときに、ふと彼の腰に目がいった。

 そこには42口径のマグナムがずっしりと形を潜めていた。それを見た私の目つきに気がついたのか彼はあわてて、「護身用だよ。」と笑っていた。

 彼と別れを告げ、カイエンテへと向かい、そこからユタ州に向かうべく163号線を北進しモニュメント・バレーを目指した。南から北へとモニュメント・バレーを抜けるのはその時が初めてであった。が、この辺りの岩々に沢山の顔が見え始めていた時には、私の体から疲労は消えていた。赤岩が林立する地域に入ると、あちこちから視線を感じていた。人が周りにいるような所ではなかったが、確かに感じていた。

 岩々には黒っぽいオイル分だと思うが、長い年月の間に岩から溢れ出て流れ痕を作っていたのだがそのラインが髪の毛に見え、岩の切れ目とか割れ目に顔の表情が浮かんでいた。単なる想像力のいたずらだと自分に言い聞かせて走ってはいたが、その数は尋常なものではなかった。

 そして、その顔のすべてが悲しい表情をしていると気づいた時には、一種の鳥肌の立つ思いがしたがそれと同時に、その顔がすべて現住のアメリカ人たちのものであることに気づいた。何を私に語りかけていたのだろうか。それは、侵略者たちに国を奪われ、政府という機関と資本主義という化け物から補助金という魔法をかけられ、あたかも座敷牢に入れられているかのようにして質素に生活をする人たちの姿があった。

 ただ、場所を未だに思い出せないが、一カ所だけ笑顔ばかりが浮かび上がっていた岩があった。その所在を確かめられていないのが残念だが、少しは気分的に救いにはなっている。

 ブラフから191号線に合流し北進。モアブに着いた時には夕方近くになっていた。食欲がなくても何かを食べないといけない、と町の中心近くにあるマーケットの斜向かいのピザハットで軽く食べた。この町のすぐ北部には私の好きなアーチズ国立公園がある。

 128号線からコロラド川沿いにインターステート70号線を目指しシスコへと向かう。この当時はダートの部分があったが、現在はすべて舗装され通りやすくなっている。もう辺りは闇が出番を待っていたかのように多いかぶさってきていた。

 再びコロラドに入る。グランドジャンクションに2日ぶりに戻ってきた私は、愛車のリアタイヤに異常を発見した。その時の私は自分が何をやってきたかを、否応無しに認識させられる事実に一種の驚きを感じていた。

 この短時間に耐久レースでもやるかのように走り続けたエンジンは、炎天下のハイウエイを下りて低速走行をした時にはさすがにダレを感じさせたが、それ以外は信頼性のある排気音を後ろにしながら私を引っ張って行くかのように走ってくれた。ところが、その長距離走行の為にタイヤの溝がなくたっていた。いやそれ所ではなく、その下のゴムまでが摩耗し下地の繊維質までがほとんどタイヤの接地面全体に姿を現していた。

 そこまで良くもバーストしなかったものだと自分の幸運に感謝しながらも、ここからどおしようかと迷った。時間的にタイヤを換えてくれる店などはなかった。

 仕方なくそのまま騙し騙しスピードを抑え目にして兎も角次の休息予定地であるグレンウッド・スプリングスへと向かった。山岳部に入り多少空気は冷えてきているがタイヤは熱をまだ持っていた。ここでリアタイヤの空気を少し抜き、道路に対するタイヤの接地面積を広げ摩耗の対象となる面積を広げることによってバーストを防ごうと考えた。それでも騙し騙しの走行は続いた。

 標高2500メートルを越える山岳地帯に入ると空気はひんやりとして、タイヤに対する不安を和らげてくれた。ところが、スキーで有名なベールに入ろうとした頃、思わぬハプニングが起きてしまった。やはり疲労のいたずらということで済まそうとする自分は幸運だったとは思うのだが、居眠りをやってしまったらしい。しかも既に暗闇と化したローキーの山々に囲まれた70号線を100キロ以上のスピードを出したまま約5分ほど寝ていたらしい。

 わっと気がついた時には、二車線走行のセンターラインの上をしっかりと走っていた。目の前に浮かぶぼやっと輝く光はなんなのかと一瞬思ったくらいの状態であったが、それがヘッドライトが照らす前方の路面であったことに気づいた時には我に返っていた。

 その後はまた疲労と眠気の戦いであったが、無事にデンバーに戻ってこれた。ハイウエイからシェリダン通り出口で下りて大通りに入るべく交差点を左折した時に、疲れで集中力がなくなっていたのか中央分離帯を越えてから左折してなかった自分は、思わずコンクリートに乗り上げて反対側にある最初に入っているべきであった路上にでて北進をした。

 自宅に戻ってからの事は、記憶に全く残っていないほどの勢いで睡眠に入った。

 
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