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通訳として依頼を受けた。ある日曜日の夕方であった。ちょうどデンバー空港から帰宅する途中のI−25号線を南下するところで携帯が鳴ったのである。東京の某旅行社のR社長からの国際電話であった。緊急を要する内容だと察知はしたが、事故で怪我をしたお客さんの補助を大至急して欲しいということ以外は何のインフォメーションもなかった。彼は以前大手旅行会社に勤めていたが独立し、自力で業界の中で成功
しようとした男であるが金銭的なことに重点を置き過ぎる傾向があり、故に収益に手段を選ばない輩との仕事関係が広がっているところであった。
私は急いで着替えも持たないまま病院のあるコロラドスプリングスまで向かった。そこは、車で約1時間〈100キロ〉ほど南にある街である。ツアーの添乗員と関係者が付き添っているとは聞いてはいたがそれ以上の情報はもらえず、状況が全く把握できないので気が焦る思いをしながらアクセルを踏んだ。事の重大さを説明できない理由がR氏にあったのであるが、私に対してそれをその場に及んでも認めようとはしていなかった。
ペンローズ・セント・フランシス病院。この街では2番目に大きい総合病院で名前の通りキリスト教系らしく正面入り口の中にはマリアさんの銅像がたっていた。緊急入り口の受付に集中治療室(ICU)の位置を聞き、2階のICU病棟に向かった。仮眠をとれるように薄暗く設定されている家族待合室の隅で、以前このグループの下見の時に会っているDさんを見つけた。
簡単に挨拶をすると、企画会社(外資系某企業)代表T2氏と取り扱いツアー会社、T社の同行責任者のT1氏は、ICUの方で怪我をしたお客さんに付き添っているという。急いで、その部屋に足を運び、入り口のナーステーションの看護婦に状況を説明して患者の入っている特別室の場所を確かめた。薄いカーテンの横から覗いてみると顔見知りのT1さんとT2さんが厳しい顔でベッドに顔を向けていた。ベッドに横たわるNさんは体中にチューブが張り巡らされているかのようにあちこちに、点滴やら何やらの管が走り回っていた。意識はあるようだったが、目はうつろで、時々酸素補給を受けていたためか、突然いびきをかいて睡眠に陥ったりしていた。
「遅くなりまして」とT1さんに声をかけると、横から割り込まれて不愉快な感情を出すかのようにして、嫌な顔をされた。T1氏は独裁者的な権力を持ってT社のある部門を取り仕切っている。彼が手に入れたこの外資系企業のツアー手配による収益は膨大なものであり、同社社長との主従関係とも思われる戦国時代的な殿さん持ち上げ政策が攻を奏してメジャーコーポレートアカウントとして押さえており、それに対する驕りは言葉で表せない域にまで達していたが、彼自身はそれによって人の真の信頼を得ていないことには全く気づいていなかった。私の出現(到着)に彼は眉に深いしわをよせたまま何も言わず、外の方に高々と指を指した。「何しに来た。待合室で待ってろ!」という無言の命令であった。独裁者の威厳は強く、目の前で回復の兆しさえ見えないでいるNさんのことよりも大切なものを考えている様子であった。私は頭を深々とさげ、待合室まで戻ってDさんと合流し待機した。
この事故に関わるツアーには経緯があった。T1氏は旅行業務において収益を上げるために手段を選ばないという点においても大変能力のある「プロ」である。彼と初めて会ったのは前年夏のツアーの時であった。大手アカウントを扱う彼の意気込みは尋常ではなく、細かいところまで配慮をして無事に最初に頂いたツアーは終わったが、航空会社のフライトキャンセルやらの問題があった。また、そのお客の首領VIPの性格が平成の殿さんのような偏った輩で、私たちのような旅行会社スタッフは単なる「もの」として扱われた。食事もさせてもらえず、最低限の睡眠さえ許されない状態で酷使させられた。アメリカ人相手にやっていたら、確実に訴訟になっていただろうが、仲介で依頼を頂いた会社に義理があったため、疲労と空腹と戦いながらの1週間耐え尽くした。同行していたT1氏の部下たちは何も言わずに働いていたから、そういう扱いはいつものことだったのだろう。
これは、その首領O氏率いる某外資系企業の主催ツアーであった。実は数ヶ月前にT1氏を含めた3人がデンバーに来られ、私に会いたいと言って下さったので再会していた。夕食を御馳走になったのだが、何のために私に会おうとしたのか未だによく分からない。この事故に至るツアーのコースを地図で見せて下さったので、私はオートバイ経験の長い自分は、自分の経験を活かして正直に誠意を持って思うところを言った。しかしT1氏は、こちらのレンタル会社の人が勧めているコースで、「ヨーロッパからのお客さんが喜んで成功している山岳コースを初日にとっているんだ」と私を無視するかのように割り込んできて叫び睨んだ。私の考えはこうであった。まず@慣れない右側通行で疲れがでること A日本から到着してすぐに運転をすると時差ぼけがでること B初日に山岳部に行くと標高の上昇と共に酸素が薄くなってそれがより顕著に出るということ Cまた初日の昼食後はお腹に血が回るので余計に眠くなること を自分の経験からアドバイスをした。(注:デンバーは標高が1600bあるから少し山岳部に入ればすぐに2500b〜3000bに上がる)しかし、T1氏は、ぎっと額に血管を膨らませて私を睨むようにしながら、「お前のアドバイスや意見を聞こうと日程を見せたのではない。」と無言で叫んだ。彼の眼から真意を察した私は、「申し訳ございません。でしゃばったことを申しまして。」と言って、一切口をはさむのを止めたのである。結局私をパートナーとしてツアーに加えたいとの言葉を戴きはしたが、私を除いた3人でそのコースの下見をすべくデンバーに来ていることを最後に伝えられた。要するに情報だけを得ようと私を釣ったのであった。
「パートナー」の中で私だけ下見からはずされていたのであるが、下見に私が行く必要がないと彼が判断したのであると思っていたので何の憤りもなかった。彼に同行していた下見の2人は旅行のプロで、西海岸で活躍している方々であったが中西部の標高の変化や道路状況を知らないから下見は必要であると肯いていた。しかしながら、彼らは皆お客さんが各自で乗ることになっているオートバイそのものに乗っていた経験が皆無に近かったから、そのことだけが私には気がかりだった。乗っていた人間だけが知っている経験と知識というものがある。
50人くらいの集客を見込んでいたこのツアーは結局15人ほどしか集らなかったらしく、最後まで「宜しくお願いします」と言っていた東京のR社長から、宣伝のパンフレットが出るのも遅れてしまったから集客が予想を下回ったという理由で私の添乗・同行は不必要になった、とかなり日にちが近付いてから連絡を戴いた。他の仕事を断ってスケジュールを調整していたのであるが、お客さんの都合であるから仕方ない。「そうですか。残念です。いいツアーになるように祈っています」と心からその成功を願っていた。お客さんが運転されるオートバイに関してもっとも経験のある私をツアーから外した理由は聞く由もなかった。
そのツアーに参加しているお客さんの一人が事故に遭ってしまった のである。
事故が遭ったのは到着した翌日。つまりレンタル車両で運転を始めた初日で、丁度昼食を終えた後の午後の1時半前後だったとNさんが回復の兆しを見せた時にT1氏に私がしたアドバイス、そしてそれを蹴り散らされたことを話しながら回復すると思って喜びながら話した時に、T2氏から病院で聞いた。事故現場は山岳部の景色のいい緩やかな高速コーナー。時速80キロほどで走っていて、コーナーを曲がりきれずに外側に飛び出して大転倒をし、車両は大破するほどの事故であった。緊急車両が集り、緊急ヘリコプターで前述の病院に運ばれたのである。
そして、その日の夜に私がかけつけたのであった。しばらく待合室にいるとT1氏とT2氏が姿を現した。深刻な顔をするお二人に指示を戴き、私は怪我をされたNさんの通訳としてつくことになった。ICUで意識があったりなくなったりするNさんに私は自己紹介をし、看護婦さんたちにも正式に挨拶をした。深夜まで付き添った後、医者の判断を戴き、私たちは近くにとったホテルに移り床についた。
翌朝ICUに足を運んだ時はNさんも顔色がかなりよくなり意識もしっかりとしておられた。ただ左の鎖骨を折り左脇腹の肋骨をほとんど全部骨折しておられたから紫色になった肩の辺りをみるのを辛かった。脾臓損傷による出血があったため入院直後に急遽手術をしており、腹部には大きなテープがはられていた。お昼頃に事故現場を管轄とする郡の警察官が立ち寄り調書をとった。そして、自損事故ではあったが、公道で事故を起こしているということで「不注意運転」の切符を切られた。Nさんは、内容をしっかり理解し苦笑いして切符を受け取ったが、事故そのものの状況をはっきり覚えていなかった。
午後に入って主治医の判断で、回復も順調とみなされ一般病棟に移動された。新しく入ったルームの相室の方にも笑顔で挨拶し、顔色も眼の輝きも回復の兆しが感じとれていた。ときどき検査に来る看護婦にも心を開き冗談まで言い始めるほどであった。直接水さえ飲めなかったから、時々私が口に運ぶスポンジを吸っては、「悪いねえ」とNさんははにかみながら何度も詫びをいれていた。
夕方に入って看護婦も回復具合に満足で、担当医も、順調な状態だということで私たちは午後6時過ぎにNさんに「また明日の朝参りますからゆっくりおやすみください」と言ってホテルに戻った。
その約1時間半後に私の携帯電話がなった。病院の担当医からのものであったが、最初は彼が何を言ったのか私には分からなかった。いや、言っていたことは理解していたが、それを受けつけられなかったという方が正しいかもしれない。
「Nさんが先ほど息をひきとられました。」
時間が止まってしまったような、周りの情景が歪んで見えた。ムンクの「叫び」の背景をみているような気持ちだった。急いでT1さんに電話を入れたが後から記録をみると医者から連絡を受けて から15分くらいも経っていた。T1さんは私を疑った。「本当なんでしょうねえ。」嘘を言っても仕方がない。しかし、嘘であって欲しいという心理的な現実を無視した願望がある。自分の聞き 間違えてあってほしいという。「いや確かです。しっかりと聞きなおしましたから」間違っていた欲しいという気持ちが、私の聞いた言葉が脳裏に鮮明に蘇ってくる度に叩き潰されていた。
結局、原因が分からず変死とみられたため御遺族との対面の後日、司法検死官による解剖が行われ、遺体の帰国手続きを済ませた。
私がこのツアーについていたら、または、オリエンテーションで説明に出ていればこの事故は避けられたと断言できるほど私はうぬぼれてはいない。しかし、お客さんが一人一人自分で運転するオートバイそのものの限界、時差ぼけ、疲れの影響、眠気との戦い、転倒の恐怖、山岳部の道路状況・標高の変化による影響などを自分で経験したこともない人が随行添乗員としていたのは間違えであったと確信している。スキーツアーにスキーをやったことのない人をつけるようなものである。スロープの癖や天候、雪質、アメリカのスキーヤーの癖、コンディションなどを考慮しアドバイスすることが出来難いからである。
Nさんの事故現場の様子を伺うとブレーキを踏んだ後が全くなかったらしい。彼は恐らく居眠り運転をしていたのであろう。私の恐れていたことが現実に起こってしまったのである。
その後自分の犯した責任を感じてか、または現実回避を心理的に行おうとしたのか、はたまた、単純な心理から言われた通りの惨事に一人の命が消えたことを正直に認められなくなってしまったのか、それ以後このツアー会社関係者から連絡を受けることはなくなっている。哀れという言葉の一つの感覚を経験させて頂いた思いであるが、東京のR氏、彼の会社に投資をしているサンフランシスコのI市、T社のT1氏は自分たちが引き起こしたことを認めるかのように、その後は私の会社に対する嫌がらせを始めた。人一人の命の大きさを痛感させられたという経験だけを考えれば、私は計り知れないものをNさんから教えてもらったが、その中で収益のためには手段を選ばず経費の低いものを質や知識、経験を軽視して扱うことだけを考える経営者たちの愚かさをも思い知らされた。
2007年春に以前3年ほど支店長な職を頂きお世話になっていたポートランドのA社国際部部長のN氏から電話が入った。同社での経験は会社経営の本質、そして管理陣営のエゴや虚栄を勉強させられた貴重なものであったが、奇抜なアイデアマンでありながら右腕となる部下を持つ能力に欠けていたN氏は、過去のことを忘れたかのようにこの年に企画されているオートバイツアーに関して誘いをかけてきた。私は「もちろんオートバイ関係でしたら私の専門ですから、引き受けることができます。」恐らくここで彼はほくそえんだことであろう。しかし次に私が放った言葉で彼の口調は一変した。「ただし、以前お客さんの命を重視しないツアーがあって一人亡くなっていますが、知っていますか?」彼は話し出すと自分の話が終わるまで人に一言も言わせない癖があり、反論するとすぐに意味もなく怒る輩である。知らない「ふり」をする彼に私は釘を打つつもりで具体的にあの事故のことを話した。彼の反応は明らかに変わったが、あとでファックスを送るという言葉で電話は切られた。察しの通り、その後彼からはファックスはもとより電話による連絡さえなく無しの礫となっている。私の勘の通りだったらしく、あの事故を引き起こした連中が絡んだ企画がまた芽を吹いていたようである。
いずれ彼らには天罰が下ることと思う。Nさんの冥福を祈る思いである。
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