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一生チャレンジ、一生青春という言葉をモットーにしているから、私はよく「青春」という言葉を使う。チャレンジというと格好がいいが、どうもこの種の課題が多い宿命らしく絶えることなく襲いかぶさってくる。それらと共に生きて行く限り、肯定的に対処しなければ精神的に参ってしまうことがある。それゆえに、このようなモットーをもつようになったのだろう。そして、青春というのは、いつでも、若い頃の気持ちを忘れずにという意味も含めて使っている。
私はどちらかというとおっくうな性格だったのかもしれないが、10代、20代の頃よりも、もっと言えば30代の頃よりも、40代の今の方が気持ちの方が充実していると自分では思っている。人生の喜びが分かるようになったなどと偉そうなことを言うつもりはないが、少なくとも私なりの経験を積んだお蔭で、また様々な人との出会いから得たもののお蔭でそんな充実感があると思っている。そして、それまでになかったパワーを得てきたように思っている。
先日この言葉に噛みつきを入れた方がおられた。「40を越えて青春などとはふざけている。そんな青い人生を私は送っていない」と叱るように言われた。えっと私が驚いたのに気がついている様子であったが、どうも私の真意は分かっていないままだったようだった。彼は何故瞬時に飛びかかってくるかのようにして私に噛みつかれたのか。その細かい状況までは超能力者ではないから私には分からないが、少なくとも精神分析上の心理学的な判断からして、その人は「青春」時代に悔いを残しているのだろうと思った。ただし、悔いを引きずって生きている人ではなく、それとは違った素晴らしい人生をこれから送ろうとする前向きの姿勢を感じてはいた。
私が「青春」というのは、「青い」「春」を迎える10代後半から20代の人生を言っているのではなく(青春を送る年代が規定されているという話はしらないが)、その年代の「青春」のエネルギーをそのまま今も持ち続けて「熟年層」に勢いをつけてチャレンジを続けたいという意味で使っていたのだが、思わぬ誤解を受けました。言葉というものは、コミュニケーションに欠かせない素晴らしいツールではあるが、主観の違いによって誤解を受けてしまうことは、それだけ人間の考え方が多様化しており、また複雑な構造をしているということであろう。
確かに青い春という熟語である「青春」という言葉における、目で見る漢字の威力は凄いなあと、視覚的なインパクトの威力を思い知った出来事であった。視覚的なものが、人間に与えるインパクトと文字の力というものも、これからの私の人生における素晴らしいツールとなっていくだろう。努めて力を出していけば「努力」も認められるというものである。
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