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口にでるものというと、食欲に任せて押し込んだのはいいけれどもうまくおさまらなくなって飛び出したやきそばの類とは違う。♪タラリ〜、鼻から牛乳〜♪というものとも違う。頬についているご飯粒に気づかずに話に夢中になる人が出すそれでもない。
誰にでも経験があるとは思うが、感情的に耐えられなくて思わずだしてしまう「あれ」である。思わず「馬鹿野郎!」ということもあるし、「畜生!」などもある。女性なら「何さ」とか「もお〜、馬鹿にして〜」などと沢山あってそれらを集めただけでも本が出せるのでは(大袈裟)と思えるほどである。感嘆符がつくと感情的に口にだす言葉として表現できるが、この言葉にもいろいろとあり、単に感嘆符の表現上の補助をもってそのイメージを書面に表すものではなく、人の本質的な我が侭度合いや人格を表現するレベルのものについて話してみたい。
簡単にどういう言葉のことを話したいかというと、思っても絶対に口にださいないような言葉や内容ということである。どんなに相手が憎くても古傷をえぐるような言葉を吐けば、人格を疑われて人気を落とすのはスポーツ界で活躍するアスリーツたちだけではない。立場を失ったり自分を下げてしまったりする。庶民的に言えば、次の週からは釣りの誘いがなくなったり、旅行の誘いもなくなってしまうという恐怖をもつくりだしかねないことである。そして、それは場合によっては当たり前の礼儀であることもある。
我々のコミュニケーション能力というのは千差万別で、そのレベルは単に数字で表現できる採点システムなどで表せるようなものではない。その形、大きさ、色、性質は多岐に渡っており、ディバーシティー-多様性
(diversity) と呼ぶに値する複雑なものである。それでも人間の気持ちを分析するのに興味深いものも飛び出してくることがある。
あたり障りのない返答や言葉を口にだすことに長けている人は少なくないが、自分の本心を自信を持って、または責任を持って言える人は多くない。政治家にしても、ビジネスマンにしても、責任が大きくなるにつれて本音を避けるようになる。発言問題と吊るされることがあるが、よく発言問題で騒がれる石原新太郎東京都知事などはこの例外に入る人で、自分のポリシーというものをはっきりと持っている人だと思うし、その言動に責任を取るだけの度胸と技量を持っていると思う。彼の政治能力に関しては、判断材料に乏しいのでコメントは避ける。
それとは反対に、確かに正直な気持ちを口にだしているとはいえ、責任をとる度胸どころか責任転嫁だけを目的にしており、また我が侭だけをエンジンにしている人も稀にみる。哀れなものだと思うが、そんな人にとっては、自分が常に悲劇の被害者であり、何事が起こっても周りの誰かが悪いと信じ込んでいる。そんな人の成長はまず考えれず、単に人を憎み、僻み、年をとっていくのであろう。口にはだせないような言葉を、平気にだす人たちである。
そんな人に出くわすと、私は何も言い返せなくなってしまう。何故なら、何を言っても進展性がなく、結果がいつも同じで必ず予期する回答しか出てこないと確信が持てるからである。そんな人間にはなりたくないものであるが、そう思えるのも、そんな人たちが少なからずいるからなのだろうか。
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