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在米生活も長くなってくると、否応なしに日米間の国民性や文化の違いを日常生活で見せられてしまい、それを如何に消化して体にしていくか自然に強いられてきたような気がする。良く言えば、そういう感受性や観察力が自分にあり順応性があったことに感謝しなければいけない。
その受け止め方の良し悪しは別として、ものごとには必ず二面性があると信じている。いいことだけのものはないし、悪いことだけのこともない。だから、何が起こっても良くとるか悪くとるか自分で主観や感情をコントロールできれば、何事からも学ぶものがあると思っているのである。つまり、朗らか猿になるのが一番であり、何があっても自分は恵まれていると考えるようにしている。
周りに感謝しながら、物事を良く解釈できるようになるといろいろなポテンシャルが出てくるような気がする。残念ながら現実的には、自分の周りやすぐ足元に横たわっているチャンスや可能性を見つけることが出来ず、単に自分のことを棚にあげ、人を妬んだり怨んだりする人が決して少なくないようにも思う。心の余裕を持つということは難しい。しかし、チャレンジの価値というものは、人生という自分にとっては重要で大きなステージにおいては、必ずあると思う。
話がそれるようだが、興味深い例がある。それは、日本人が「年齢」を気にするということ。国民性がその歴史的な背景や儒教的な思想からも違うお隣りの韓国ほどではないにしろ、いろいろな状況下で年の上のものが下のものを見下す場合が多い。
よくある話かもしれないが、そういう人は哀れに思える。それを良しとする社会で育っているという事実を考えれば、彼らの責任ではないようにも思えるが、そんな社会で育っていてもそう考えない私のような人間も事実存在している。現実と人付き合いの中での認識と甘えが複雑に葛藤しながら絡み合っているようである。少なくとも国際社会に飛び出してみると年齢よりも実力が重視されるのは事実である。
当たり前のことだが、先に生まれたという事実はその人の努力と全く関係がない。私も自分のコントロールと選択で生年月日、生地、性別を決めた記憶はない。私がよく言う「たまたま」の偶然に、何らかの意味を持って生まれてきたと信じている。これは解釈の角度を変えれば、他の意味で自分の存在の有意義さを認識したり、再認識する材料にもなる。
そういう肉体的な「曲げられない」事実を前に持ってきて話をする人にとって、最も恐ろしいものは自分にないものを持っている人間に直面することである。また、自分のいる地位などを脅かす恐れがある人間が近づいてきた時である。そして、時には自分の言動に自信がなかったり過ちを見つけ出してしまって居所がなくなっている時である。
そんな時、「曲げられない」事実でのみ護身を謀れると思う人たちは、年令や体の大きさ、腕力にものを言わせて胸をはり顔を真っ赤にして頑張るのである。彼らにとってその事実は最後の切り札であり、他には何もないことに対しての恐怖心を自分で怒鳴り散らすことによって忘れ去ろうとしているが、第三者からはまる見えなのである。哀れなものであるが、その心理は理解できないでもない。
ある時、私の尊敬する獣医さんと話をしていた時に、「表向きはぺこぺこしていても陰では年寄りを馬鹿にする風潮があったり・・・、お互い個と個でぶつかり合える国は良いですね。」とアメリカに対する憧れをほのめかされた。
アメリカでは、その個と個でぶつかる良さと弊害もあり、一長一短である。日本は日本でいいところが沢山ある。それは他国と横に並べて比較は出来ないと思う。ただ、他のものと並べて初めて見えるものが沢山あるので、自分たちを発見するために比較することは大いに必要だと思う。それを単なる比較と解釈して先入観としている人が多いのが問題なのである。
何に関しても比較をするのは簡単である。背の高い人と低い人。髪の毛の黒い人とブロンズの人。年上の人と年下の人。視覚的なインパクトは何においても大きいものがある。しかし、人間としての価値観や人格、主観を比較するのは容易なことではない。
人間誰も生まれた時は裸である。精神的に裸になって人と話せる人が一人でも増えることを願うばかりである
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