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時々在米中の日本人から聞く言葉に疑問を持つことがある。
オートバイ仲間のアメリカ人達は、オートバイを通して私を「仲間」と見る。アメリカは「人種の坩堝」と呼ばれる国であるから、ネイティブ・アメリカン(俗にアメリカン・インディアンと呼ばれていた人達)以外は白・黒・黄色・ほか(順不同)の様々な人種的バックグランドを持った人達で構成されている。故に、その外見だけで何人か判断出来ない場合が往々にしてあるし、またその人の話す英語の発音やアクセントのみで判断することも難しい。それに加え、悲しいかなアメリカ生まれのアメリカ育ちでも英語の読み書きの出来ない人が驚くほど多いらしい。
アメリカのある都市に住んで結構長く、中にはアメリカに帰化してアメリカ市民になっている方、つまり私などに言わせると移民として根をはられている大先輩にあたる方々の中にも会話の端々で「ともかく、外人さんはねー。」「そりゃー外人さんだから、」などと表現される方がいる。
最近ははっきりしないが、一時期よりも円高の影響と就職不足や、特に女性の婚期延長の傾向の影響?もあって「留学生」の数は減らない。私の場合大学時代に、イギリスに数週間留学していた経験のある同級生の女の子の英語の発音が、下をペロペロと巻くようでとても「外国語」らしく聞こえて感動したことを覚えている。おまけに英文科のエコヒイキな教授が彼女をもてはやし、我々の発音が悪いといつも、「ではYさんに見本を聞かせてもらいましょう。」と楽しんでおられたのもあって、英語とはそのようにペロペロ巻き方式で話すのかと納得していた。
私自身は、渡米どころか北海道さえも行けず、今では私の思い出の1ページ見事に飾っているがSR500(ヤマハの単気筒)で後輩の大田氏と一緒に走った能登半島一周旅行をするのがやっとであった。そんな私から見れば、外国で勉学の機会を持てる彼ら留学生たちの待遇はとても羨ましい限りである。これからの国際化社会を日本と共に、ドカンと肩にのせて世界の中で活躍する人達である。が、この「留学生」諸君の会話にも、この人気者の「外人さん」という表現ががよく飛び出してくる。
私は、永住権を持ちアメリカに在住する日本人である。この国では、日本人はアメリカ人からみれば、「外人」になる。その「外人」がこの国の主であるアメリカ人を「外人さん」などといつまでも言っている所に、日本人、そして日本人文化の問題点が大きく芽を出しているのだが、その日本人には見えないらしい。何故見えないのかと疑問を抱きつつ現代日本がどのように存在しているかを考えざる負えない。何だか話題が、大きく発展するようにも思えてしまう。
私は、その描写や表現が好きで故司馬遼太郎氏の、特に幕末から明治維新にかけての歴史小説を読む。また最近、私が人生の師一人と思っている、当地在住のある移民の大先輩との会話や、彼から借りて読ませても戴いている前述の小説に加えて、かなり前に読ませて戴いた宮本氏の「官僚の掟(講談社出版)」に、日本人は単にちょんまげをなくし帯刀をしなくなっただけであると思っている。今の日本には江戸時代からの封建制やその秩序、しきたりや概念が、今もなお存在しているということである。これには驚いたが、思い当たる節が結構あることに、また驚いちゃうのである。ああ、びっくり。
宮本氏の言われる「日本株式会社」の、組織の中にあるヒエラルキー(ハイアーアーキー)の構成が官僚社会だけでなく、小さいところでは、多くの会社の中や、学校などの教育システム、そして一人一人の日本人の潜在意識の中に植え込まれている。会社の長が、部下の不祥事に対し、辞任によって責任を取ろうとしたり、ひどい時だと会社が負債を抱えて倒産すると社長が首をつったりする。まるで、江戸時代の切腹と形式が似ていると思うのは、私だけであろうか。ひとりの人間が犠牲となることによってお家断絶を避ける。一人の管理職が辞任することによって、その会社の一部門の存続を守る。問題そのもののちゃんとしたけじめがつけられなくても、システムの中のまたは日本の社会の中の慣例に従ったとみなされるような行動がみられれば、総て解決と自他共に認めてしまうような風習がある。
日本における団体の中の個人は、私欲を捨てて貢献することが団体の為になると教えられ、個人を犠牲にして会社に尽くす人が多い。残業や休日出勤、接待などで明け暮れ、退職金をもらう頃には何をしようかという目標がなく、また、何をしたいなどというモーティベーション(モチベーション)さえない場合が多い日本人と比べ、アメリカ人は、退職後の楽しみを頭上に掲げて毎日働く。
私の好みではないが、いい年のお婆さんが、驚くような化粧をして車で走り回る国がアメリカである。また、ポルシェなどのスポーツカーに乗っている人は白髪の人が結構目につく。日本人は、働くことに熱中している為、遊ぶのが下手であると思われるが、アメリカ人は遊ぶことを常に考えている人が多い為、仕事が雑になるような弊害が比較すれば出ないこともないがここでは触れないでおく。何故なら物事の一長一短を論じると良し悪しの比較ではなく、分析がもっと複雑なものになりえるからである。
さて、「外人さん」と言う言葉は、日本人がいつまでたっても国際人になれない一つの心理的な理由の現れであると思う。常に自分を主体として考え、その主体の存在する日本の外の人は、「外人さん」になるが、自分がその「外人さん」の住む外国に入国した途端に自分が「外人」になることを認められない、または認識出来ない心理的な判断が日本人から抜けない限り日本の表向きの貿易云々というものはともかく、国際化は前途多難なものであると断言してしまうのである。
日本人よ、もっと広い視野をもって海外に出よ!と言いたくなるのは私だけではないと思いたい。しかし、メジョリティーの方々を動かすには、マイノリティーの力は非力である。一人一人が少しでもいいから、会社や日本という「村」の考えを改めて世界という「村」に入っていってもらいたい。
私は、オートバイを通して、こんなことを考えているのである。タンクは、満タンで、オイルもよく回ってエンジン音も良く、炎天下の砂漠地帯に生息する様々な生物の邪魔もせずにアクセルを開け気味にしながら、乾燥した空気の中を走り抜けると前方に目的地がよく見える。爽快である。
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