| アメリカ人は素晴らしい文化的な発展のポテンシャルを持ちながら、思春期の男の子のように精神的な成長が身体的な成長に取り残されていく時期に入っているのではないかと思うことがある。強くなった自分の力を過信したり、力加減を知らずに平伏する列強を馬鹿にしたような自惚れ言動に走ったりすることを言っているのだが、人種の坩堝であり文化の交わり方が比類の国であるが故に方向を見失ったり、一部の政治力や影響力あるグループの言動が「アメリカ」のイメージを固く作り始めてしまっているのかもしれない近年である。
なぜ「無罪」などという題名をこのエッセイにつけたかというと以前から平然と使われている表現にアメリカ人の潜在的な罪への意識があるような気がしたからである。しかしながら、根本的なシステムに対する考えは米国だけの問題ではなく近代経済他国と呼ばれる国すべてに言えることでもある。
All the men are innocent
until proven guilty.
「すべての者は有罪を証明されるまでは無罪である。」
当たり前のことであるが、なぜこのように言うのであろうか。急いで付け加えると法律には、黙秘権という捕まったものが行使できる「権利」があるがそれは健全に法の意図するように活用されているのであろうか。
O.J.シンプソンという元フットボール選手が前妻と彼女のボーイフレンドを殺害した事件があった。刑事法では無罪となり、民事法で有罪となった。つまり刑期は与えられず金銭的な賠償を強いられたと理解しているが、彼が2人を殺害したのは明白であるという。民事では殺害を法的に認めているから賠償をさせているが、刑法では無罪。矛盾を感じるのは私だけだろうか。
犯罪が多いという事実の裏には、心理的な「罪」に対する考え方、見方の違いが犯罪の少ない国よりもあるのではないかと思う。もちろん罪に与えられる刑罰の内容によって「治安」を保っている国もあるだろう。一部の人間たちが簡単に罪を犯すのはなぜだろうか。
それは家に鍵をかけない人が多いから?銃を所有して護身をしている人が少ないから?または、銃を持っているから怖くなったらすぐに相手を撃てばいいと思っているから?捕まってもアリバイが簡単に作れるから?嘘をついても、それが嘘だと証明する人が少ないから?自分の時間を使ってまで見知らぬ人を助けようとしないから?見つかれなければ何をしてもいいという感覚が、この表現からうかがわれてくる気がするが、どう思うだろうか?
ときどきニュースで刑務所に何年か入れられていた人が無罪であったことが分り釈放される、というものを聞く。その人は無罪であることを捕まった時、または疑いをかけられた時に証明できなかったために刑罰を与えられたようである。
All the men are guilty
unless they can prove their innocence.
「すべての者は無罪を証明できなければ有罪である。」
DNA鑑定などの技術が開発され以前ならば無罪で捕まっていたかもしれない人がアリバイがなくても証明することができ難を逃れられることも多くなってきた。対象外にいた人がDNA鑑定で浮かび上がることもある。しかしこの技術は犯罪解決のほんの一つの手段でしかない。正直に生きることが困難になる国が少しでも少なくなることを祈りたい思いである。
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