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「Ecology」 という言葉はすでに日本語になっており「エコロジー」で通用する時代になった。生態学とか生態(系)、環境と訳すのが適切であろうが、近年耳に飛び込んでくる頻度が増しているように私は感じている。漢字にするとどうも角数が多いものが並んでいるようないつもの恐怖感を感じる私だが、それだけ人間がエコロジーやエコサイクルなどに感心を持ち、真剣に自然の中に生きることを考え始めたのであろうか。
アメリカでは、自然保護の精神が法的にも行使され、国立・国定公園やメモリアルパークなどの管理地域の他に国有林システムも充実しており、自然保護と同時に誰でも訪問して子々孫々まで継続的に保護しながら楽しめるような教育をし続けている。ボランティアの人たちが何年もかけて作り上げた山道があちこちにその手を伸ばすかのように走り回っている。これらの山道はトレールと呼ばれており、その出発点をトレールヘッド(Trail
Head)と呼んでいる。
トレールヘッドには仮設トイレや昔ながらの爆弾式の落としこみトイレが大体設けられている。本格的なトレールに行けば行くほど文明の利器は最低限なり、ハイキングやトレッキングを楽しむ人たちも脱水症状や高山病対策をしっかりとして2人以上のグループで上る。
天候によってはトレールの一部が崩れていたり、上から流れ来る水で道そのものが水の通り道になっている時もある。獣道に毛の生えたような人間道を歩いて上に上る。山岳トレール近辺で朽ちた木が立っていても倒れていてもトレールの妨害にならないものはそのままの状態で放置する。1988年のイエローストーンの大火の後も、道路や通行の妨げにならないものは自然のままにされているから、真っ黒く表皮を焦がしたまま聳えている大木の森林が見られる。雨風にさらされ、また虫が食いつき、鳥がその虫をとるうちに倒れて横たわるのであろうが、10数年もするとそんな骸骨森林の地表面には2メートルほどにもなる若木が先を競って空に伸びている。
横たわった古木はその生涯を終え静かに自然に包まれながら土に戻る。湿気がうまい具合に包みこむように訪れてくれれば、小動物が集まることもある。そして、カビや苔が生え、バクテリアたちが細胞を食いつくしてくれるだろう。森は生き物のようなものである。そのどこかで生命のエネルギーが必ず息づいている。
冬の間寒さに耐えぬいた樹木たちは春になると大きく芽を出して夏に備える。夏には力一杯太陽の光を浴びて成長しエネルギーを蓄える。銃もくたちも動物や虫たちも森という世界の中で共存し、死んでゆく。新しい命との交代はごく自然に行われ、屍は土に戻る。そんなスケールの、何百年も前から行われてきたエコサイクルを、改めて認識する必要があるのは何故だろう。それは、人間が自然に入りこみ過ぎたということではないだろうか。世界にはまだまだ知られない生態系があるであろう。我々は謙虚にその自然のサイクルに落ちつくことも学ばなければならない。
森の木たちは、自分たちの将来のために種を蓄え落とす。コーンと呼ばれる松ぼっくりのことである。杉ぼっくりとはいわないが、そんな形で森の将来への準備を毎年しながら、成長している。数100年というスパンで森にも火災が起こる。数十年ごとに来る極度の干ばつなどが枯葉や枯れ木ばかりでなく生木をも乾かしてしまう。雷が山に落ちて火の手が上がると、地表面を焼くようにしてありとあらゆる燃えるものを灰にして火の手が広がる。多くのバクテリア、虫、動物が死ぬであろう。数10年いや100年以上も立ち聳えていた木も生涯を終える。
コーンの表面は焼け、その厚い鎧をはずして焼け爛れた山肌に横たわる。そして、訪れる雨。その水を吸ってコーンから芽がでてくる。幾つかの樹木の種は、そんな風に焼けないと発芽しないという。ロッジポールパイン
(Lodgepole Pine:Pinus contorta)などがそれであり、パンダローサパイン (Pandarosa
Pine:Pinus ponderosa) やダグラスファー (Douglas Fir:Pseudotsuga menziesii)
よりも山火事から得るものが大きい。自然の偉大な力である。
エコロジー。そのサイクルは人間の生涯のスパンとはスケールが違う。人間は一体何をしているのだろう。
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