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自然の偉大さに魅せられて写真という世界の奥底に向かって年々入っていく自分を感じながら、何の抵抗もなく成すがままに身を任せて気が向いた時に撮影にでている。偉らそうに言ってはいるが私にはまだ写真で食べていけるほどの知名度も技術もない。気力がなければ腰も重く外に出ることさえできないが、ほんのちっぽけな「理由」があれば、知らないうちにそれが「動機」となって腰を軽くしてくれる。自然の魅力とはそんなもので、人間の潜在的な起動スイッチを押してくれる「魔力」でもある。自然写真または景色撮影などというと光の性格上、朝か夕方の時間がいいとされている。太陽の力は強く多くの命を支えてくれているが日中は熱くなり光も強くて絵葉書のような写真は撮れるかもしれないが、視界に広がる被写体たちの感情表現や素顔が隠れてしまうことがある。
2004年9月10日の金曜日に友人のH氏と砂丘の撮影のためにモスカに向かった。片道約400キロの道のりでハイウエイをただひたすら走る。22年もいるとアメリカ中西部の物理的な広さの感覚はすでに馴染んで身体にしみこむに至っており、日帰りで800キロを走る感覚はごく自然なものであるが、移動中はお供がいると話し相手ができてとても楽しく過ごせる。H氏は有名な動物写真家の下で修行した人だが驕りや威張った態度は決して出さない、常に何かを学ぼうとする純粋な男である。動物を被写体とする彼が砂丘に興味を持ってくれたのである。そんな人と話をしていると「通い慣れた」砂漠への道のりも一際有意義になり体中のオーラがまた違ったダイナミックスによって強調されるかのようでもある。自然と接すると体感する不思議な力というものがあるのを理解できる人は少なくないだろう。そして、それは人と人との付き合いにおいても我々が自然の一部であるという事実を考えれば同様のまたは類似した力を持っていることも察することができると思う。
この日の天気予報は雷雨の可能性30%で通り雨程度の雲の発生が考えられるというもの。雲があると写真も栄えるから撮影にはもってこいの可能性の天候である。折りしもアメリカ南東部のフロリダ州では「チャーリー」「ガストン」「フランシス」というハリケーンが列をなすかのように上陸し多くの被害をこうむっていた時で、次の「アイバン」が大西洋上で成長を続け次の週には最大級のカテゴリー5という大きさでジャマイカ、キューバをなめながら北上してくるという時期である。
9月初めのLabor Day(勤労感謝の日)連休が終わり旅行シーズンが季節的には終わっていたがインターステート上の街を抜ける時にはまだまだ交通量の多さを感じざる負えなかった。州道に移りサングレ・デ・クリスト山脈を乗り越えてサン・ルイス・バレーの大平原(盆地)にでると雲が騒がしく空を賑わせていた。右手に見えるブランカ山を時計回りに回ってその西の麓を今度は北進した。また来たぞ、と叫びたくなるくらいの喜びを感じながら前方にかすかにみえる砂丘の陰に我を忘れた。次第に近づいてくる砂丘を見ながら友人と撮影スポットをどこにしようかと放し始めていた。ビジターセンターに寄って今日のコンディションを確認した。
車を進めトレール手前に停めて撮影機材を背負い込んだ。砂地が足を沈める。周りには秋の訪れ前に力一杯黄色い花を咲かせるラビットブラッシの茂みが目に飛び込んでくる。上の方ではアスペンが黄葉を始めている山岳部麓では、杉や松の木も目に付くが砂に幹は埋まり、深く張った根に命をかけて天に聳え立っているかのようであった。前方の砂丘に足を進めていくと雲が急に成長を始め太陽を隠していった。雲の切れ目を探し、光の再来を期待し足を進めたが、雲たちの成長が急加速しその色も雷雨を伴う黒いものに変化していった。光に恵まれず撮影はしたものの表情の出にくいものしか撮れなかった私たちは仕方なく息を切らして下りてきた砂の丘を上った。
車に戻るとちょうどタイミングを合わせたように雨が降り始め乾燥していた砂漠の砂や水を喜ぶ樹木たちに降り注いでいた。雲行きをみても夕日までに消える気配もなく私たちは帰路につくことにした。写真撮影はいつどこにいっても思うものが思うように撮れるわけではない。だからがっかりはしても、これでまた来る理由ができたんだと次を楽しみにする。そんな思いでハイウエイを走っている時に夕暮れの舞が始まった。
砂丘から2時間ほど離れたところでは雲の切れ間が見え夕日がその光を線を描くようにして私たちに話しかけているかのようであった。H氏も微笑を浮かべて見ていたが、しばらくすると夕焼けの色が白から黄色に、そしてオレンジにと変わっていった。雲にも不思議な動きが出始めた時、私たちは何のためらいもなく次の出口で下り、道の脇に車を停めて外に飛び出した。空は真っ赤に燃え始めていた。そのピークはほんの2分くらいであっただろうか。私たちはただ無心でシャッターを押していた。
自然は偉大である。私たちがその存在を認め、畏怖し、尊厳の心を持って望む限り自然は私たちを手ぶらで帰すことは絶対にない。
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