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毎日の生活の中で、自分の気の拠り所や状態によって感じるものと感じないものがあるように、周りにあってもみえるものとみえないものがある。これは写真撮影にだけにいえることではないが、写真撮影にもいえることとして考えてみると、気づきのようなものがあると思う。私がもっとも気力を注いでいるテーマに砂漠というものがあるが、撮影をし始めた頃のポジをみると、なぜこんなところを撮っていたんだろうと思うことが多々あり、見るたびにポジを捨ててしまう。今だから言えることだろうが、当時は圧倒されてしまい、折角自然が魅せてくれているものに気がつかなかっただけであり、また撮ってやろうという自分主体の精神的姿勢があったからだと思う。写真は被写体がないと撮れないし、被写体とのつながりがなければ気づくことさえない。そのつながりが感じられるようになると、写真を撮っているのではなく、撮らせてもらっているという気持ちが芽生える。流れに勢いを得た川のように、感性という川幅がどんどん広がっていく感覚がでてくると、奥へ奥へと引き込まれる。そういうステップを踏んでいると、ふと周りにみえてくるものに気づく。それらは以前はなかったものではなく、以前からあったにも拘らず気づかなかっただけのものである。
写真を始めたばかりの方や、長いことやっているが本格的にやろうと思っている方は、何気なく周りに存在するものから撮ってみるといいと思う。そうすると、それらの立場から自分自身がみえてくる。そして、彼らから見ると自分も「何気なく周りにあるもの」だと思える客観性がでてきて、思わぬ発見があると思う。そのような感覚を自然に会得できるようになったら、被写体が何であろうとつながることが出来ると思うし、波動(エネルギー)がマッチして今までとは違った写真作品が撮らせてもらえるようになるだろう。これも自然体というものなのだと思う。
私は、写真は感性が99%だと思う。1%が技術だが、前述の感覚を持って撮影に臨み、撮らせてもらえるものをしっかりと撮ることができる上に1%の技術が入ったら、それはもう写真ではなくなるほどの存在になると思っている。写真にはそういう力があるし、私たちにもそこまで磨ける感性という無限の力がある。もうお分かりかと思うが、99%と1%という数字は必ずしも99対1という数字における対比だけには留まらないと思えるものとして感じている。
(2011年4月)
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(在米写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに活動する写真作家) |