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癒し 写真 【小池キヨミチ】
シリーズ: 大自然に思う
シリーズ: 潜在的な力
シリーズ: ひとりごと
自然というものを再認識する時代がきた。文明の発達により我々の生活様式が変わり、物流システムの発展により都市集中型の生活環境が確立された。しかし、増える人口を養うために開拓される山野、食料調達のための乱獲がもたらす動植物の絶滅、鉱物発掘のために掘り起こされる土壌から流れ出る毒性ミネラル、促成栽培や品種改良が与える種の本質的な変質、国際化がもたらす人種分布の拡大と交差、食生活の変化によって異常に増える新しい疾病範疇、など、多くの事実や課題がのしかかってきている。総てが今までのツケであり、どこかで改善や修復をしなければ手遅れになるだろう。
我々の存在は、他の動植物とどう違うのだろう?すべての存在に意味があるとしたら、我々の愚行も何かしらの意味を持っているに違いない。でも、果たしてそれが自然界にあるべきものかどうか。変化を強いられた大自然が調整を始めている。いずれはその調整が完了する時が来るだろうが、その時に我々が存在を許されるスペースが残されているかどうかは、全く分からない。頭脳的に優れて進化してきた意味を大きな心で理解できるはずである。近年の不況は、驕りで拡張し続けた経済力というものの代償であり、ツケである。
自然は何を伝えようとしているのだろう。 進化、進歩、発見、発達、発展、発明、文明改革、市民革命、産業革命、工業革命、技術革命、土地改革、行政改革、....。最初のうちは自然のシステムと協調して、他に存在する「仲間たち」を認識尊重していたと思うが、知恵がついたというギフトを活かすと同時に利用し始めて芽を出してしまったのが、環境破壊である。
自然は常にバランスをとろうとしている。人間が、物質欲のみで動いた侵略。鉱物採掘などや「便利な」化学製品加工の副産物として垂れ流された汚水や汚物はその通り道に生きる動植物に影響を与える。「絶滅危機に瀕している」または「絶滅した」仲間たちに対しても自然は均衡を戻し保つべく動いている。
自然の中に生きることは難しく、それでいて簡単なことではないだろうか。当たり前の生活という観念を再認識し、最低限必要なものの有り難さを考えてみると、現在の人類が持っていたり求めているものの多くが如何に無駄なものであるかが見えてくる。果たしてそんなことをしている人類には、そんなことをすることによって与えられている「役割」が本当にあるのだろうか。
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