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ある仲間から生きる姿勢、そして写真というものがもつ力というものを学んだことがある。彼は脚を頼りに
ひたすら山に入る。そして気の遠くなるようなトレールを歩き続け、森の放つ香りや臭いを身体一杯に吸収し
注がれる太陽の光を浴びる。風を受け雨に濡れながら自然の懐へと足を進めていく。生きるために歩くのか
歩くために生きるのか。個々が持つ人生という限られた「時間」が、それぞれに意味をもちながらも異なった
流れを与えられるように、しかしながら、その中で自分の位置を知ろうとする人は勢いを与えられ、同時に
試練を授けられている。いくつもの山を乗り越えるように前進し、時には遠回りしながら、その先にみえる
景色に酔いしれ、期待し更に進もうと気力を盛り上げる。
彼の写真には音がある。風に揺れる樹木が身体を揺するそれや、小川のセセラギが大地を削って流れる
それである。彼の眼を通して捉えられた画像は、彼の感性が感じたままに音さえも写っている。
彼の写真には息がある。野草の咲き広がる山肌から放たれるそれであり、森のキャンプサイドで焼く魚の
香りさえも感じられる。
彼の生き方には力がある。それは常に人に元気を与えてくれるそれであり、何事にもチャレンジする気力を
与えるものである。それは、報酬を求めるための努力ではなく、自然が与えてくれる本能とのつながりを感じ
させるものである。
彼の物腰の低い姿勢、そして常に輝く優しい目は、長年に渡る自然との交わりが彼に与えたもろであろう。
しかしそれは、単に与えられたものではなく、彼自身が自然とつながる時を知っていて、素直に与えられる
ものを受け入れられる姿勢をもっていたからこそ、授けられるものであると思う。
写真というものの魅力は、見る人に感動を与えるものだと思う。作者の思いだけでなく、写真を撮らせるに
至らせた被写体の力と、それを感じた作者の「位置」が、それを知らない人にまで大きな影響を与えてくる。
「写真は単なる道具だ」という人がいるらしい。しかしいい「道具」を持っている人がいい写真を撮るとは思わ
ない。写真は感性が9割、技術が1割という。自然が教えてくれる悠久のつながりがもたらす喜びと発見が
我々の本能を鋭敏にし感性を研ぎ澄ますように、撮影においても心の位置と姿勢というものが、撮らせて
もらう「画像」に吹き込まれる力を左右するように思えてならない。写真は映像を視覚的に捉えて伝えると
いう道具の域を超えて、被写体の放つメッセージさえも伝える力を持っていると私は信じている。
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(在米日本人写真家: 小池キヨミチ - アメリカ合衆国コロラド州をベースに活躍する写真作家) |