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自分を表現する
写真にはどのような力があるのだろう。多くの様々な写真家の作品を見させてもらって感じることは、それぞれが写真を通して自分を表現しようとしているのではないかと思うことである。私自身も、自分に与えられた感性を通して写真に何かを吹き込みたいという感覚と、被写体が自分を通して何を訴えようと(または伝えようと)しているのだろうかなどと考え、感じることがある。これは物理的なものではなく、また言葉で説明がつくレベルのものではないことはお分かりと思うが、誰もが少なくとも感じることができる「感覚」かもしれない。
一人の人間の生き様や考え方が作品を通して見る人に伝わる時、作品には単にその存在だけでなく、見る人の感性までも引き込んで包み込み一つの世界さえ作ってしまうパワーがある。写真を通して自分を
表現できることはギフト(才能、授かりもの)だ。しかし、それもアプローチする角度が違うと全く違った方向に進んでしまうことがありうる。
私は作品作りを通して常に感じているのは、写真は撮らせてもらうもの、であることだ。被写体がなければ撮影はできない。「これは良い写真ですね」と言われることがあるが、その時私は「被写体が美しいからです。私はそれに惹かれて写真を通してその表情を私なりに(私の表現として)撮らせてもらっているだけです。」と応える。カメラを通して自分を表現するために被写体を画像的に捉えられることは素晴らしいことだと思う。いい代えれば、カメラというものは自分の表現するもの(被写体が私の感性を通して訴えようとするものであったり、私を魅せる意味を持っているものであったり、など)
を作品という形に残すための「方法」なのだと思う。自己表現を絵画に求める芸術家たちは油や水彩ペイントを使ったり、木を彫刻したり、石を削ったりすることもあるだろう。また音楽を通してメッセージを送るアーティストも少なくない。
写真撮影において、カメラを「方法」としてではなく撮影そのものの核としてだけて使って写された画像は、どんなに鮮明に美しく写っていても、作者の表現は感じられず単なるプリントになることもあると思っている。撮影は感性が主体となり技術はおまけという人もいるが、私も同感するところだ。「写真撮影は九割が感性で一割が技術である。」という言葉がそれである。特にピンの甘さをやたらと批判する方がいるが、与えられた条件下で作者が何を思ってその場面を撮らせてもらい、どのような思いで作品として発表したかを察する方が、見ている者にとっても感性のつながりをもつことができ、前に進み成長するチャンスを与えられるものだと信じている。ピンの甘さはピンホール写真の魅力に始まり、奥行きをぼかしたり前部のぼかすことによって目の位置を導いたり、想像力を柔らかく刺激するという点で味がある。撮影状況を理解することができない現実を隠し、目に見えるものだけで人を批判する人は、自分で枠を作ってその中に閉じこもっていることに気づかず、また気づいていても気づいていない振りをするために、外にその注目を集めようと他者の荒を探すパターンに陥るが、作者の伝えようとする素晴らしいメッセージや、被写体が作者を通じて囁く言葉を聴くことができない。
自分を表現することの大切さ、そして素晴らしさは、それを知らない人の反応によってさえ再認識されるという点でも、奥深く幅広い未知のポテンシャルを与えて気づかせてくれるところにある。
(2008年12月)
在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに写真作家活動
砂漠写真、砂丘写真を主体に大自然とのまじわり、つながりを写真を通して紹介
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