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心の位置
私は写真撮影という活動を通して強く感じることがある。その一つは、心の位置である。撮影というものを根底から支えているものであり、また樹に例えるならば幹を形成する芯にあたる細胞組織のようなものでないかとさえ思うものである。よく人に話すことだが、写真作品を発表したり観て頂くことは、単に写真機で捉えた画像を見せることではないと私は思っている。なぜなら、写真は被写体の気を捉えるものであり、撮影者の心を映し出すものでさえあるからである。
自然を撮影する風景写真というカテゴリーがあるが、私の撮影の被写体は自然そのものである。具体的には砂漠、砂丘という自然の一部を通しての(自然)全体につながる表情を捉えたものであるが、風景写真というよりもネイチャーフォトと敢えてカタカナ表現した方がニュアンスが伝わる。
自然との会話を続けながら撮影をしていると感じることが多くある。それは自然そのものの強烈な本質や、精神的に感じる奥深いものに加え、自分自身の存在、そして心理的な動きや鼓動のようなものである。写真撮影をする時に、よく感じることは何も考える余裕がなくなることかもしれない。それは圧倒的な力やスケールを持って自分を包み込む自然の偉大さに身を任せる瞬間に感じることである。真っ白になる、という表現がいいのかどうかは分からないが、邪気が吹っ飛ぶような感じがする。なにしろ相手が大きすぎる。理屈や欲ではとても太刀打ちできない。だから、私は撮影に入る時は魅せてくれるものを撮らせてもらう。撮影中は気を緩めると命を落とす可能性さえあるが、常に自然を身体全体で感じ畏敬の念を持って感じるがままにシャッターを切ることによって作品作りを続けている。
心の位置というものは、与えられたものを素直に最大限に活かすことであり、感謝の気持ちを常に身体から解き放ちながら自然に身を任せる時に感じうるものではないかと思う。
(2009年2月)
(在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに活躍する写真作家。静岡県浜松市出身。1983年に渡米して以来アメリカ中西部コロラド州に在住する。)
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