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仲間というもの
私にとって、仲間とは、その人生の背景の違いや職種や生活スタイルの違いに関係なく、前向きな姿勢を保ちながら生きることに意味を求めている同類のエネルギーを発している人たちのことである。それは、私が写真撮影活動を通して自然とのつながりを求め大切にするように、限られた人生という時間の中で与えられたものに感謝しながら、それぞれの経験や知識を分かち合いお互いの成長を喜び合える貴重な人たちのことである。私は財産や社会的な地位はないが、そんな仲間に恵まれていることが宝である。そして、この宝が私自身に与えられたギフトを活かし、役割を見つけ果たしていく大きな機動力になっていることは明確である。
3月の帰国時に再会した仲間の一人が突然色紙をプレゼントしてくれた。そこにはこんな文章があった。
気力は眼に出る
生活は顔に出る
教養は声に出る
土門拳の「風貌」からの引用らしい。私が土門拳の写真に惹かれていることをなぜ彼が知っていたのかは分からない。しかしそれは偶然に思える必然かもしれない。そして、親しくしている彼がこの時期の私になぜこのような文章を贈ったのかは、おのずと必然的なものとしてみえてきている。
上記に付け加えて私はこう思っている。
感謝の気持ちは自惚れを自信に変える
自信は自分の可能性を無限に広げる
素直な姿勢は心を広げるチャンスを与えてくれる
大きな心は人の心に通じ励ましの声を放つ
恨みや妬みは自分の可能性に蓋をする
憧れは機動力になり、前向きな行動は道を開く
信念ある行動は人の本心を炙り出す
意味のある活動は人の心を動かす
無欲という意味を価値観念の位置を変えて考えると、深い所につながってくる。表向きだけの付き合いよりも、芯でつながる付き合いがしたいと思える昨今。
新たなる「時」を迎えて仲間の輪を確実に広げていけたら幸せだろう。
不況にあえぐ世界情勢の中、人間の驕りが社会という枠の中で蓄積した毒を吐き出す時期にある。そんな中で、強く感じることは自分自身が求めている本物が見えてきているということである。それは溢れ広がる群集の中から本物をみつけるのが困難であることを理解しながらも、不況という極端な精神的負担を強いられる状況を与えられた時期だからこそ腰を落とす連中が存在し、そんな彼らの動きによって本物が際立って見えてくるからである。
自分の理想とする仲間を求めることは、彼らと同じレベルに自分を築き上げることであり、また、人生という与えられた時間的スペースに自分の位置をしっかりと見据えることである。お互いを認めあえることはギフトであり、それは会うたびに認識しあえる喜びでもある。気力は眼に出る。そして、生きるスタイルを司る生活は顔に出る。仲間達がそれぞれの生活の中で得る教養は声に出てお互いの成長を喜べる貴重な時間を分かち合うことができるのである。
仲間というものの有難さを痛感する日々を喜びと共に過ごして生きたい。
(2009年4月4日)
在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに活躍する写真作家
静岡県浜松市出身 1983年に渡米して以来アメリカ中西部コロラド州に在住
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