|
大地のエネルギー
撮影地に頻繁に足を運ぶことは作品をまとめる上ではとても大切なことだが、それは自然とのコネクションを強めるという意味でも重要だと私は思っている。人気のないところにぽつんと何時間もいると周りの音や風、そしているはずのないものの気配のようなものを感じるようになる。 実際には見えないところでコヨーテやマウンテンライオン(ピューマ)がこちらの様子を伺っているのかもしれないが、大自然に身を任せる状態でいると感じるエネルギーのようなものがある。これは言葉では説明しにくいが、大地から湧き出てくるようなものだと思う。
ここ数年通い写真展まで開催させてもらった作品たちの出身地である大砂丘でも、それを感ている。身体を通り抜けるようなエネルギーで、肉体的疲労はあっても精神的充電をしてくれるようなものを感じることが多くある。今年の初めに次の撮影テーマの1つであるコロラドプラトー(高原)
地域の撮影のために2度ほどユタ州側に横たわる地域に足を運んだ。巨大な赤岩があちこちに顔を出し、太陽の位置によって様々な光と影による表情を出してくれる魅力的な世界には理屈なしに引き込まれてしまう。その中にあるアーチズ国立公園内で夜中に夜空を入れた撮影をしている時に、身体を揺さぶるようなエネルギーを感じた。それは砂丘で感じたそれとはキャラクターの全く違ったもので、まるで周りの岩の中から湧き出ているようにも思えたほどだった。突然きたために恐怖心が芽を出してしまったが、これからまた頻繁に訪問させてもらうこの地域の大地からの出迎えの言葉だったのか、歓迎の衝動的爆発のようなものであったのかは分からない。
そういえば、このエリアは20年ほど前にオートバイで24時間半2,050キロを走り通した (帰りは1日半かけ2,500キロ走破) 時に、この赤岩の表面に無数の顔を見たことがあったが、それは
私にとって肉体と精神に疲労の極限を体験させてもらった貴重な体験だった。その顔たちはこの赤岩の地域だけで見れたのものだが、全てが悲しい顔をしていたように見えたのを覚えている。それらは先住民の顔であって、侵略民族のものではなかったところに、この地域を先祖代々守ってきて近代国家に飲み込まれた多くの種族のことを考えさせられたのを思い出す。疲労による幻覚という意味でいうならば、本当に疲れが出てきたこの日の旅の終わりに近い頃に通り抜けたヨセミテ国立公園で見た多くの動物や人は岩や樹木だったのかもしれないが、不思議な経験をさせてもらった思いが今もある。日本の先祖たちが昔から言い伝えている森の神、池の神、川の神などはアニミズムといえばそれまでかもしれないが、それ以上の存在感を感じることは決して不自然なことではないと思っている。
(2007年10月)
在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに写真作家活動
砂漠写真、砂丘写真を主体に大自然とのまじわり、つながりを写真を通して紹介
|