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チャンスというもの
日頃ふと思うことがある。それは、たとえば、なぜ自分は海外で生活しているのかというようなことだ。帰国すれば同級生などから冗談半分に聞かれては「わっはっは」で終わる話の流れにのるにすぎない「話題」になることはあるが、その「話題」が自分の人生の主軸になっているものにとっては思うところは深くある。それが物理的な場所であったり、時代的な時間的位置であったり、それぞれの人生観や精神的な視野や視界、焦点距離やフレーミングによって見えるものと見えないものがでてくるという点において話したいと思う。
比喩的に話すことがかなり含まれ、抽象的に聞こえることもあるかもしれないが、何事も如何なる形でもっても、それぞれによってそれなりに解釈することができるというレベルにおいてどうにでもなるということ。漠然と日本的なぼやかしのニュアンスを含めた響きがあるかもしれないが、選択の正解もあれば不正解もあることなのだと思う。災難に遭っても苦しみの中で「生きている」という認識を持つか、「なぜ自分だけ」と悔しがるかというプラス思考かマイナス思考かによってもたらされる「姿勢」に似ているかもしれない。
「自分は恵まれていない」とか「俺は運が悪いからなあ」といって生きている人は本当に恵まれず、運が悪いのだろうか。与えられた命そのものがギフトであると感じるならば、そのもたらす身体や健康、そして人生の中で培う知識、教養、経験などもギフトだと思う。写真というものを考えると、撮影をしていてシャッターチャンスというものがあるが、瞬時に判断しなければいけない動物撮影にあるものもそうだし、少し余裕があるようでいてそうでもない風景写真もある。ベストな光がどの時点で出ているのか山勘で撮影したり雲や風によって予期せぬ変化が起こる可能性のある風景写真など、多くが経験を通して分かっているが、悔しい思いをしていることもあると推測する。
チャンスというものは恵まれないと得られないものなのだろうか。私は決してそうは思わない。写真撮影をしていて学んだことは、チャンスは無限に存在するということだ。しかしながら、それらは出向いてきてはくれない。素晴らしい光景をみると思うことがある。
それは「恐らく以前も見ることができたであろう光景を、自分は見ることができなかった」という思いだ。それをチャンスと言うならば、それに気づかなかった自分が以前あったということがはっきりと分かるようになる。
撮影において常に必要な姿勢は、まず自然体で心を開き、写真を撮ってやろうという自分本位の気持ちを捨てて「写真を撮らせてもらおう」という謙虚な気持ちでいることだと思う。そして何気なく目のいく先にカメラを向けてファインダー超しに覗いて見てもらいたい。横構図、縦構図で覗き、腰を下ろしたり中腰にして目の位置を変えてみてはどうらどう。そんなちょっとした動作を加えるだけで、今まで見落としていた表情、景色、そして「チャンス」がみえてくるかもしれない。
何事も前向きに、そして謙虚に。これは写真撮影だけにいえることではない。
(2008年8月)
在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに写真作家活動
砂漠写真、砂丘写真を主体に大自然とのまじわり、つながりを写真を通して紹介
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