サバク(砂漠)というと荒れ果てた灼熱のエリアというイメージがあると思う。それはそれで間違いではないが、一般的には極度に乾燥した死の世界というようなニュアンスもあるらしい。確かに夏は40℃を越える暑さに裸足では火傷をするほどの砂の熱さがある。場所によっては氷点下20℃以下になり、砂に含まれたわずかな水分が固まって砂を固めることさえある。
砂は永遠の旅人。その時の湿度と温度、そして風の動きによって空に舞う。季節風やある程度一定の風が続くと砂は移動を続け、その行く手を阻む巨大な壁(山脈や海)が彼らを積もらせる。そんな繰り返しが何万年か何百万年か繰り返されると砂丘ができることがある。あの世界最大といわれるサハラ砂漠にしても、古代は水に恵まれ緑があふれていた地域だったという調査結果がでているが、長い年月の間に変化と共に形となって現在私たちが見ることのできる景観をもっている。
砂は永遠の旅人と言われる意味は、ひょっとするとキャラクターこそ違うが、空に現われては流れ、消えては現われる雲と同じものかもしれない。雲は水蒸気(水分)から形成されるが、それには気圧の上下が左右する。そしてその動きが風を呼び起こす。地上では大きな固形から徐々に分解されて砂や土になるものが、軽いものから風に飛ばされる。大気圏内には目に見えないような大きさの埃のようなものが常に待っているから、砂が決して最小のものとは限らない。
砂地が続く荒野。砂漠地帯と呼ぶのだろうか。植物が根を下ろせないエリアには砂字が顔を出し、風の悪戯なのか、メッセージなのか、砂紋が残される。毎日の太陽の動きの中で、砂面の表情は常に変わり、常に動いている。
写真家たちがそれぞれにテーマや被写体を求めて自然に入る。中には自然に帰ろうとする者も少なくない。山を好むもの、川を好むもの、動物を好むもの、虫を好むもの、などなど。そんな中で、長い時間を費やしていると「気づき」がある。そして、その先には「感性の本当の目覚め」がある。個々の感性の違いは素晴らしいギフトであるが、そんな経験の中から、私には「呼ばれている」という感覚がでてきている。それはもちろん耳に聞こえる聴覚的な「音」や「声」ではない。ひょっとすると勘違いかもしれないが、呼ばれたような気がして振り向くと感動の景色や情景があった、という経験をしたことがある方はおられると思う。そういう意味である。
砂被り。乾燥した風に唇を乾かし。手の指や甲が乾燥して粉吹き芋のようになりながら、サバクとの会話を続けていると、やはり気のせいではないと思えるだけの何かの存在と「ささやき」が感じられてくる。
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